2021年4月「みちのく潮風トレイル」全線を歩き終えた。その過程で起こったこと、出会った人々等について、いくつかのエリアを選び、エピソードとして連載でご紹介します。

はじめに

福島県相馬市にある「みちのく潮風トレイル」最南端の起点、松川浦にある環境公園のエンドポイントに最後の一歩をしるしたのは2021年4月19日午後12時20分のことだった。

みちのく潮風トレイルの南の基点、福島県相馬市 松川浦記念公園

青森県八戸市・蕪島から福島県相馬市・松川浦までの総延長1000キロを超える「みちのく潮風トレイル」に最初の一歩を踏み出したのは2016年10月、八戸の蕪島にあるトレイル北端の起点から金浜までだった。その後少しずつ時間を見つけてはその時間の範囲の中で歩きやすいエリアを選んで歩き続け、特に震災10年目が近づいてきたこの2年ほどは、この大震災10年目という節目の年、そして自分自身も70歳を迎えるという節目の年にどうしても全線を歩き終えたいという思いから、一回につき100㎞から200㎞くらいずつかなりのハイペースで歩いてきた。前々から最後のゴールを踏むハイクは、みちのく潮風トレイルを代表するハードエリアである船越半島、重茂半島、海のアルプスといわれる北山崎を含むエリアを歩いた後、最後に残った福島県新地に飛び相馬市の松川浦を目指すと決めていたが、実に足かけ4年半もの年月を費やすことになった。

2013年4月に不治の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)という恐ろしい病で道半ばにしてこの世を去った年子の兄則芳から、生前「みちのく潮風トレイルが開通したら自分の代わりに歩いて欲しい」と言われ「必ず歩くから」と約束してから10年の歳月が経っていた。

わが国において、今では「ロングトレイル」という言葉はごく一般的に認知され使われるようになっているが、加藤則芳はわが国のロングトレイルハイカーの草分け的存在だった。自然保護の観点から日本や世界の国立公園や巨木の調査を続けていく中、アメリカの自然保護の父といわれるジョン・ミュアーに出会い、その思想に基づいて作られた極めてハイレベルなアメリカの国立公園法の思想に深く共感した。そしてわが国にもそういうレベルの自然保護の思想を根付かせたいという強い情熱を持ちながら、アメリカの「ロングトレイル文化」を日本に紹介し、日本にも本格的なロングトレイルを作ろうと生涯をかけて情熱を傾けてきた。「社会人である前に本来自然人であった」はずの人間は、自然の中に身を置き長く歩くなかで自然の大切さ素晴らしさを再認識し、自然と共生し守ろうとする姿勢をとりもどしていけるのではないか、という考え方が原点にあった。兄は残念ながら道半ばにして難病で帰らぬ人となった。その兄の形見である愛用の緑色のバンダナを手に松川浦のゴールにある表示板に触れたとき、10年前のその時の兄の表情がはっきりと甦ってきて心の中で「やっと約束を果たせたよ」とつぶやきながら、なにかほっとした気持ちと、則芳の夢の一つでもあった三陸沿岸のロングトレイルがこうして素晴らしいトレイルとして現実のものとなり、多くのハイカーが歩きつつある状況を天から見ながらさぞかし喜んでいるだろうなという思いと、自らの足で歩きたかっただろうなという思いがこみあげてきて胸が熱くなった。

兄・加藤則芳愛用のバンダナを手に歩いた

 「何も起こらないのがロングトレイル」「いろんなことが起こるのもロングトレイル」といわれるが、今まで歩いてきたエリアを北から順にいくつか選び、そこで起こった出来事を少しずつ思い出しながらそのエピソードをご紹介していきたいと思う。

「350キロの三陸トレイルをつくりたい」

ぼくが兄則芳から、カナダの「ウェスト・コーストトレイル」という75キロの海岸トレイルのようなロングトレイルを三陸沿岸に作りたいという話を初めて聞いたのは多分2006年か2007年頃だったと思う。「ウエストコースト・トレイル」はカナダ西部のバンクーバー島にある、砂浜あり岩場あり崖ありのチャレンジャブルなトレイルで、ちょうど当時岩手県庁の自然保護課で陸中海岸沿いの自然歩道にも関わっていた則芳の小学校時代からの大親友・岡野治さんとのやりとりもあって、三陸エリアに「点在している国立公園、国定公園、県立公園などの自然歩道をつなげれば350キロに及ぶ三陸トレイル」ができるはずだということだった。岡野治さんは、ぼくにとっても同じ小学校中学校の一級先輩であり、中学では同じテニス部で則芳とともに先輩だったので、よくわが家にも遊びにきていた方だ。則芳が山を歩くようになったのは、山歩きに詳しいこの岡野さんと一緒に奥武蔵や奥秩父等の山を歩くようになったのがきっかけだったと思う。彼は千葉大の園芸科を卒業した後岩手県の自然保護課に勤務していたが、まさに則芳にとっては大親友の岡野さんのことが頭にあって「三陸トレイル」の話になっていったのは間違いないと思う。ただこの「三陸トレイル」作りの提言は時代の流れの中で当時はほとんど振り向かれることがなかった。

半島が連なるリアス海岸の景色。崖のアップダウンを繰り返す

ぼくが次に則芳からこの「三陸トレイル」350キロの話を則芳から聞いたのは、2011年7月ころから2012年始めの頃にかけて、既にALSで動くこともままならない状況になって入院していた北里病院に見舞いに行った病床でのことだった。則芳は、東日本大震災によって壊滅的な打撃を受けた直後から車椅子姿で環境省を訪れ、三陸沿岸に人が歩く道「ロングトレイル」を作ることが様々な観点から復興への道につながることを強く提言しており、その結果「三陸復興国立公園」構想に基づく新たな発想によるトレイル作りへの動きがスタートしていた。病床で「前に話していた三陸トレイルがいよいよ実現に向けて動き出した。なによりも環境省が震災復興のプロジェクトとして本格的に動き出している。局長や課長クラスの人たちだけでなく意識の高い若手の人たちもたくさんいて、組織をあげて動き出してくれている。これは間違いなくいよいよ実現するぞ。」と興奮気味に語るそのうれしそうな表情は今でもはっきりと目に焼き付いている。

「延々と崖のアップダウンを繰り返すエリアや、2キロ近くにわたってひたすら砂浜を歩くエリアや、潮が上がると歩けなくなり迂回する必要のあるポイントもあったり、チャレンジャブルで変化に富んだおもしろいトレイルになる。これを官民地元共同で作り上げていければ間違いなく震災復興の大きな力にもなるはずだ」と話していたが、同時に「多分残念ながらその開通を自分の目で見ることはできないと思うから、もし歩けるようになったら代わりに歩いてほしい。」と頼まれたのもその時だったと思う。

砂浜を延々と歩くルートもある

当時350キロといっていた三陸トレイルが、2013年5月には実距離700キロとなり、更にその後1000キロを超える大ロングトレイルとして2019年6月9日に4県28市町村の首長全員が手を繋ぎ合う中で高らかに全線開通が宣言された光景を則芳が見ることはついにかなわなかった。しかし、このトレイルの通称が「みちのく潮風トレイル」となり、2013年秋には青森県八戸市から岩手県久慈までの部分開通が決まったことを聞いてから旅立つことができたのは本当に良かったと思う。最後の最後まで日本に本格的なロングトレイルをとの情熱を持ち続けながら、静かに永遠の旅に出たのは2013年4月17日のことだった。

みちのく潮風トレイル全線開通式典・シンポジウムで環境大臣、4県28市町村の首長が壇上で手を繋ぎ、一本につながったことを祝った。

*みちのく潮風トレイルの正式名称は「東北太平洋岸自然歩道」。1969年以降、環境省により計画されてきた、国内にある10本の長距離自然歩道(総延長27,000km)のうち最も最計画・設定されたもの。